沖縄戦裁判     金城重明さんの証言要旨 (2007.9.10.福岡高裁那覇支部)

              (「沖縄タイムス」2007年9月11日朝刊から)

1「集団自決」について

    (1)北山(にしやま)への集結命令について
 昭和20年3月27日に、日本軍から、住民は北山(にしやま)に集結せよ、との命令が伝えられた。日本軍の陣地近くに集結せよという命令であり、いよいよ最期の時が来たのかと感じた。27日の夜、大雨の中、阿波連から北山まで夜通し歩いた。28日の夜明け前ころ、北山に到着した。そこには何百人もの住民が集まっていた。
(2)軍の自決命令について
北山に移動させられた住民は、村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝達した。
 母親たちは、嗚咽(おえつ)しながら、死について子どもに語り聞かせており、死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられない。
 「天皇陛下万歳」とは玉砕するときの掛け声で、村長が独断で自決命令を出すことはあり得ず、それは軍から自決命令が出たということだ。
 この裁判に提出された、吉川勇助氏の陳述書を読んだ。村長が「天皇陛下万歳」を唱える前に、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとのことたが、軍の命令が伝えられて、村長が号令をかけたことが分かった。
(3)手榴弾(しゅりゅうだん)の事前配布について
 米軍上陸の1週間くらい前に、兵器軍曹が役場に青年団や職員を集めて、手榴弾を一人2個ずつ渡し、1個は敵に投げ、もう1個で死になさい」と訓示していた。
 このことは、兵事主任であった富山真順氏から、家永裁判で証言する時に、直接聞いている。
 「集団自決」の当日にも、「集団自決」の場所で、防衛隊長が手榴弾を住民に配っている。
(4)「集団自決」の状況について
 村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて、「集団自決」が行われた。
 手榴弾は不発の物が多く、手榴弾による死傷者は多くなく、これが、悲惨な殺し合いの原因となった。
 肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。
 手榴弾によるよりも、より残酷で確実な方法で、夫が妻を、親が愛する子どもを、兄弟か姉妹を手にかけ、自分で死ぬことができない幼い者、老人から命を絶っていった。
(5)「集団自決」後の状況について
 兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしていたところへ、15、16歳の青年が駆け込んできて、日本軍と斬(き)り込みに行くというので、たとえ殺されも斬り込もうと、悲壮に満ちた決意をした。
 斬り込みに行く途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と運命を共にし、自決したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に遭わなければならないのか、軍に裏切られたと感じた。
 その後、生き残った住民と一緒に避難生活を送った。
 渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年二人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。
(6) 「集団自決」が起こった理由について
 米軍上陸の1週間くらい前に、軍から住民に、重要な武器である手榴弾が配られた。これは、軍があらかじめ、いざとなったら住民を自決させるという重要な決定をし、自決を命じていたということてあり、住民全体に対する自決命令の第―段階であった。
 3月27日に、住民を北山の軍陣地の近くに集結するように命令したのも、軍であり、住民は、逃げ場のない島で、日本軍の命令で軍の近くに強制的に集められた。住民は、軍の圧力、強制により、玉砕しなけれはならないよう追い込まれ、軍の自決命令を侍っていた。
 そして、軍の自決命令が出たという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝えた。住民は、軍の命令によって自決したのであり、その責任者は赤松隊長である。
 赤松隊長が指揮する軍の命令なしに「集団自決」は起こり得なかった。
 
 2 教科書検定について  
   これまで、慶良間諸島の「集団自決」を体験した多くの証言者が、この残酷な歴史的事件に軍命や軍の強制があったことを証言してきているにもかかわらず、2008年度から使用される高校の歴史教科書について、「集団自決」に軍の強制があったとする記述を削除するようにとの検定意見が付されたが、これは文科省の教科書行政に対する暴挙と言うほかなく、歴史教育の本質をゆがめることであり、戦後、戦争の歴史の暗い、あるいは残酷な部分を隠ぺいしたり、ぼかしてきた文部省・文科省の教育的、政治的責任は大きいと言わざるをえない。  
 (被告・岩波側弁護団提供資料による)